僕は青柳裕子さんを尊敬し、愛している( ´ ▽ ` )ノ

青柳裕子さんと言う女性は裕子さんが高校3年生の時から僕が、ずっと崇拝する女性の名前です( ´ ▽ ` )ノ僕が20歳の時には彼女との結婚💒👰を考えてました( ´ ▽ ` )ノでも、僕の片想いです( ´ ▽ ` )ノ1998年から、2017年現在も彼女にプロポーズのラブレター💌を送付し続けております( ´ ▽ ` )ノ僕は彼女の為なら死んでもいいです( ´ ▽ ` )ノ

仏教に於ける無我の意味 独自研究(@^▽^@)

      2017/05/05


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無我の意味について4つの解釈を試みます(@^▽^@)


無我とは仏教用語です(。>д<。)ゞ


テニスの王子様では無我の境地とか言いますね。


スポーツマンにとって無我の境地は永遠の課題です。


竹脇無我と言う人も居ますが、私はよく知りません(@^▽^@)


私はキーワード抽出ツールと言うのを持ってますが、それで無我で検索すると無我と名のついたSMクラブ迄登場します。

 

無我とは非我であるという説(中村元)

我ならざるもの(非我) 大川隆法先生の講演会の発言「私であって私ではないものがある」と言う言葉を根拠とした説


幸福の科学では守護霊様と本人の魂は個性は別だが、両者は一体だと教えている(@^▽^@)


どういう事かというと、
個性が別とは例えばゴータマシッダールタと大悟して以降の仏陀は同一人物でありながら個性が違うということ。


ゴータマシッダールタは生老病死(しょうろうびょうし)の苦しみから人々を救い出したくて一修行者になった者に元釈迦国の王子に過ぎない(@^▽^@)


仏陀は文字通り悟りたる者。


別人である。


これは私にも当てはまる(@^▽^@)


私と私の守護霊は別々の個性を持つ。


私はアフィリエイトに余念がない一方で福岡市議会議員や漫画家、絵物語作家、仏師、心理療法士になりたいなあと思っている。


それに対し私の守護霊は「エルカンターレ像を造りたいなあ」と思いながら仏像彫刻をしつつ霊天上界で私が尊敬する手塚治虫先生のアシスタントになる霊存在(@^▽^@)


宮崎駿の守護霊などは幻術を使う修験者で明治時代の洋画家黒田清輝が宮崎駿の直前の過去世である。


守護霊本人も「個性は別々だが、一体」と言う趣旨の事を言っていた。


そうそう宮崎駿の前世の中には武田軍団の占い師と言うのもあった(@^▽^@)


どの日に戦えば負けずに済むか吉凶を占っていたそうだ。

そう言った事を根拠として無我とは「我ならざるもの」と言う意味だと言いうる。


東大名誉教授インド哲学博士故・中村元が唱えた非我説である。

 

無我は無霊魂説じゃないと言う説(雑阿含経)

 

サンスクリット語の無我とはアナートマンと言うから、無霊魂説だという説(@^▽^@)


この説が現代日本の仏教学の定説(=_=)


これを唱えたのが故・宇井伯寿と言う仏教学者。


アナートマンとはサンスクリット語のアートマンと言うバラモン教の霊魂を指す言葉の否定語でアナートマンだから、無霊魂説と言う事になるという訳。


しかし、これは松谷みよ子さんの著書を根拠として否定できる(@^▽^@)


松谷みよ子さんというのは色んな伝承を本になさっていてその著書には不成仏霊とか死体が生き返って亭主の愛人を槍で刺殺して果てたと言う話を本にしている。


だから、宇井伯寿は仏典の字面だけしか読み取れてないと批判したい。


そう言った伝承が各地に伝わっているのなら無霊魂説は間違いでバラモン教が想定していた霊魂とは人魂や幽霊を指すのではないかと言う説も言いうる(@^▽^@)


仏陀がアナートマンと言う表現を使って全存在は無我(諸法無我)だと教えたのはこう言った人魂や幽霊は人間本来の在り方からはかけ離れていると言いうるのじゃないか。


人間は修行して悟りを開けば高級霊になる道があるのじゃないかと言いうる。


漢訳仏典の「雑阿含経」(ぞうあごんきょう)に出る「有我」と言う言葉を根拠として無我は無霊魂説じゃないと言いうる(@^▽^@)


雑阿含経には修行僧が仏陀にこう質問する場面が出ると仏教学者の故・中村元が言っている。


「阿羅漢の悟りを開いた者は「我が有る」とか「我が語る」とか言ってもいいでしょうか?」
それに対し仏陀は「使ってよし」と許可を与えている(@^▽^@)


つまり無霊魂説と言う教えじゃないという訳である。

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無我とは偽我を捨て去って霊的に純粋に生きなさいと言う説(信仰告白の時代)

 

無我とは霊的に純粋に生きなさいと言う教えだという説 幸福の科学の経典「信仰告白の時代」所収の「反省の原点」を根拠とした説。


「反省の原点」には肉体感覚を通して出来上がった自我を捨て去って(六根清浄)霊的に純粋に生きなさいと言う教えが説かれている(@^▽^@)


これが無我の教えじゃないか。

 

つまり我が無いと言う教えじゃなく、我を無くせと言う教えじゃないか?

 

無我と言う言葉が漢訳仏典由来である以上、無我は漢文である( ´ ▽ ` )ノ

 

漢文と言うのは返り点と言うのを翻訳の際、使う。

 

そう言った事を根拠として無我の翻訳は「我が無い」じゃなく、「我を無くせ」だと断言出来る。

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幽霊になる自分を我と思い、梵我一如の説が常識だった当時の風潮に対するアンチテーゼだという説(雑阿含経)

 

漢訳仏典の「有我」と言う言葉を根拠とした説(@^▽^@)ニコ


漢訳仏典には「有我」と言う言葉が出ることは既に言及したが、この説を根拠として別の説も成り立つ。


つまり、2500年前から2600年前に仏陀が「無我・アナートマン」と説いた教えとはバラモン教を批判する為の造語ではないかというものである。


何が言いたいか(@^▽^@)


つまり、当時バラモン教がインドに定着させていたアートマン(霊魂)と「私」とは同じ意味内容を指していたのじゃないかと言う事である。


つまり当時のインドに定着していた「私」は「アートマン」と言う風にバラモンも一般民衆も発音していた可能性がある。


そう言った事情が当時のインドにあったのじゃないか(@^▽^@)


そこに颯爽と登場した仏陀は「それは違う。無我(アナートマン)である」と説いたのじゃないか。


私はそう思う。


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