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佐倉哲と仏典

佐倉哲と仏典

佐倉哲無我説が現代仏教学の受け売りでしかない事を前提に更に佐倉哲を批判する。

佐倉哲は、佐倉哲にメッセージを寄越した方々とのやり取りの中で幸福の科学グループ創始者兼幸福実現党総裁大川隆法先生👨‍🏫を低俗呼ばわりしてはばからず自分を仏教の専門家に見せる為に仏典を持ち出して無我説を無霊魂説だと主張したり、仏陀は信仰について教えてないと主張したりしている。

ちなみに、佐倉哲とは対照的に、大川隆法先生に知性と教養をひけらかす気持ちは全く無く、小学4年生でも分かる言葉(大和言葉)を選んで説法なさっているだけである( ´ ▽ ` )ノ

僕は中村元さんが翻訳なさったパーリ語仏典だけじゃなく佐倉哲が仏典名だけ掲載してインテリを気取って読んだふりを決め込んでいる中部経典(マッジマニカーヤ)も1冊買って研究したが、中村元さんの仏典訳だけじゃなく中部経典も信仰はあって当然と言う箇所がかなり頻繁に出てくる。

例証:引用元「パーリ仏典第1期1中部(マッジマニカーヤ)根本50経編1」和訳:片山一良 大蔵出版

例証:引用元「パーリ仏典第1期1中部(マッジマニカーヤ)根本50経編1」和訳:片山一良 大蔵出版

P.16布経

即ち心の汚れには、貪欲(とんよく)、邪貪、瞋恚(しんに)、忿怒、恨み、被覆、悩害、嫉妬、吝嗇、諂い、強情、傲慢、慢心、過慢、陶酔、放逸、誑(たぶら)かしがある。

コレを心の汚れと知り、コレ(心の汚れ)が断たれると、仏法僧の三宝に対する絶対的な信仰が備わり、義の悦び、法悦を得る。

第4 恐怖経

P.71

(仏陀の発言)「バラモンよ、それはその通りです。バラモンよ、それはその通りです。バラモンよ、かの善家の息子達は私を指定し、信仰により、家を捨てて出家しています。(後略)」

 

僕は正直言って意味不明な翻訳が羅列してあるだけの和訳仏典を読んでてゴミの山⛰🏔から砂金を拾うかの如き難渋さを感じた( ´ ▽ ` )ノ

アンチ幸福の科学が崇拝する佐倉哲が崇拝する仏陀像はまがい物だと言っても良いと思う( ´ ▽ ` )ノ

正直言って佐倉哲と麻原彰晃が重複して見えた。

2人に共通しているのは2人共仏典を持ち出してやってる事は詐欺師だと言う事である( ´ ▽ ` )ノ

 

佐倉哲批判 信仰

佐倉哲批判 信仰

佐倉哲によると信仰とは思い込みの事だそうだが、それは違う。

永年、幸福の科学信者として信仰生活を送っていると信仰とは「信仰対象のハートの奥なる仏性の正体に対して自分の理解を超えた存在である地球神の臨在を看取して信じて仰ぎ見ること」である。

この信仰の定義は2017年からの幸福の科学のアルファ信仰に当てはまる( ´ ▽ ` )ノ

大川隆法総裁先生の「仏陀再誕」を見ても以前の僕だったら裏付けを取る事を仏典と幸福の科学講演会カセットテープで比較検証していただけである( ´ ▽ ` )ノ

しかし、アルファ様共なると理解を超える( ´ ▽ ` )ノ

何と言っても3億年前に物質化現象によって親無くして現出した始原の神様である( ´ ▽ ` )ノ

このアルファ様はエル・カンターレ意識の本体である( ´ ▽ ` )ノ

しかもエル・カンターレ意識の本体は15000万年前に中東全域をステージとしてエローヒム様として再誕なさった( ´ ▽ ` )ノ

そんな訳で裏付けを取りようが無いし、理解を超える訳である。

佐倉哲が仏典を持ち出して主張する無我説に対する批判

 

佐倉哲が仏典を持ち出して主張する無我説に対する批判

私は幸福の科学の無我説が余程真実を伝えていると思うので、幸福の科学の教えを根拠として佐倉哲の無我説を批判する( ´ ▽ ` )ノ

幸福の科学では無我とは肉体感覚に基づいて出来上がっている意識存在としての我(過去の教育、思想、信条によって出来上がった自分のハート)を無にしなさいと言っているし、インドの仏典を古代支那の学僧が誤訳することは有り得ない事(鳩摩羅什さんの誤訳:観世音菩薩云々)は玄奘三蔵先生(観自在菩薩云々)によって指摘されたが、コレは例外だろう)を前提に主張する。

仏教学が言うように無我が実体としての我・ 霊魂が無いと言うなら漢訳仏典に出るインドの仏典の漢訳は「我無」となる筈である。

これは漢文の文法では常識である。

漢文は文系進学校なら、何処でも教えているから、高校の国語の先生に👨‍🏫👩‍🏫聴いてみると良い( ´ ▽ ` )ノ

だから、佐倉哲が主張する無我説は漢文の文法に関する無知を露呈している( ´ ▽ ` )ノ

コレが佐倉哲の無我説に対する批判である( ´ ▽ ` )ノ

尚、無我説を無霊魂説だと主張したルーツは宇井伯寿さんである( ´ ▽ ` )ノ

宇井伯寿さんに師事したのが中村元さんである。

無我=無霊魂説に対する「サンユッタニカーヤ1神々との対話」の巻末注釈の中村元博士による無自覚の反論

 

無我=無霊魂説に対する「サンユッタニカーヤ1神々との対話」の巻末注釈の中村元博士による無自覚の反論

サンユッタニカーヤの対応漢訳仏典は相応部経典雑阿含経らしく中村元さんによれば雑阿含経には神様が「修行僧が真人(阿羅漢)の悟りに達した場合は我と言う言葉を使用して良いか」と質問したのに対して仏陀は「使ってよし」(何言説有我)と許可を与えていらっしゃると言う場面が出るらしい。

何言説有我:何(いず)れか言う我を有ると説く(この場合の有るとは実在を意味する)

実在とは、われわれがそう思うからそこにあるように見えるというのではなく、われわれと離れて別に、客観的に存在するもの。哲学用語。本当の存在

旧約聖書に出る「有りて在る者」とは実在する者を指す( ´ ▽ ` )ノ

佐倉哲の無我説は中村元さんの非我説の受け売り

佐倉哲の無我説は中村元さんの非我説の受け売り

中村元さんの非我説は仏陀は修行僧が悟りを得る為にはあの世はあるか無いか、霊魂は有るのか無いのかなどの形而上学的ドグマは不要と考えていたと言うものらしい( ´ ▽ ` )ノ

所謂、無記と関連する( ´ ▽ ` )ノ

佐倉哲が頻繁に中村元さんの著書を転載しているのを見ても相当小さな頃から影響を受けていた事がうかがえる。

佐倉哲エッセイ集を閉鎖に追いやる為には中村元さんの著書も買わないといけないのかもしれない。

正直言って資料価値を考えると東大インド哲学博士中村元さんの著書を買うのはインド哲学に関する2次資料を買うのと同じだから、お金の無駄のような気がする。

それよりも仏典と外典、Q資料、死海文書、ヘルメス文書、偽典、ユダによる福音書、ナグ・ハマディ文書などの1次資料を買い揃えた方が私的研究には実りがあると思う。

トス神についての2次資料には「エメラルド・タブレット」がある( ´ ▽ ` )ノ

中村元さんの著書を買うことは中村元さんが地獄に堕ちた原因が判明して中村元さんを昇天させるぐらいの役には立つかと思う( ´ ▽ ` )ノ

正直言って、どうしよう⁇である。

佐倉哲 批判 永遠の生命と諸行無常について

 

佐倉哲 批判 永遠の生命と諸行無常について

佐倉哲エッセイ集をよく観察するとマッジマニカーヤにも目を通している事が分かった。

しかし、佐倉哲が持つマッジマニカーヤは増谷文雄さんによる1冊だけのようだし、佐倉哲の間違いは諸行無常を生々流転の法則と混同している事である

言っておくが、マッジマニカーヤは大量の仏典の集合体でたった1冊だけでは済まない程、分量が多いから、佐倉哲が格別、博識博学という訳じゃない( ´ ▽ ` )ノ

第一、佐倉哲の仏教論は2次資料からの引用が目立ち佐倉哲の主張を検証しない方々は佐倉哲が一知半解な馬鹿だと言う事を見抜けない。

生々流転の法則とは幸福の科学経典「太陽の法エル・カンターレへの道」で言及されている、現象の生起から発展、繁栄、そして滅びを指す言葉として僕は理解している( ´ ▽ ` )ノ

佐倉哲にとって諸行無常とは幸福の科学の生々流転の法則に当たる思想だが、ここに佐倉哲の間違いがある。

本来、諸行無常とは諸々の現象が有為転変して一定の状態にとどまることをせず永遠に変化し続けることを意味する仏教の旗印である四法印(しぼういん)の1つである。

決して生滅の要素は諸行無常には無い( ´ ▽ ` )ノ

このように諸行無常と生々流転の法則は全く違うものである( ´ ▽ ` )ノ

又、佐倉哲は佐倉哲にとっての諸行無常を根拠として永遠の生命を認めない。

しかし、これに対しては典型的仏教思想である永遠の生命、リ・インカネーション(転生輪廻)を前提にしないと理解出来ない記述がマッジマニカーヤにはある( ´ ▽ ` )ノ

例証2:引用元「パーリ仏典第1期1中部(マッジマニカーヤ)根本50経編1」和訳:片山一良 大蔵出版

第4 恐怖経

P.82

19

(仏陀の説法)このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものになると、その私は、過去の生存を想起する智に心を傾注し、向けました。

その私は種々の過去に於ける生存を例えば一生でも、二生でも、三生でも、四生でも、五生でも、十生でも、二十生でも、三十生でも、四十生でも、五十生でも、百生でも、千生でも、十万生でも、又、数多の破壊の劫(時間単位)でも、数多の創造の劫でも、数多の破壊と創造の劫でも、次々思い出すのです。

『そこでは、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。

その私は、そこから死んで、あそこに生まれた。そこでも、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。

その私は、そこから死んで、ここに生まれ変わっているのである』

と、このように具体的に、明瞭に、種々の過去に於ける生存を思い出すのです。(仏陀の説示まだまだ続く)

 

佐倉哲批判 無常と恒常、断見と常見そして断常の中道について

佐倉哲批判 無常と恒常、断見と常見について

無常と恒常

佐倉哲にとっての無常とは幸福の科学で言う生々流転の法則に当たるが、これは間違っていると言ったが、佐倉哲は恒常の解釈も間違っている( ´ ▽ ` )ノ

佐倉哲にとっての恒常とは永遠不変を指すが、諸行無常という大前提が有る以上、永遠はともかく不変は有り得ない。

断見と常見、そして断常の中道

又、佐倉哲は断見を、縁起を説かないで、死ねば全て終わりという当時の唯物論者の主張として理解しているが、これは正しいかなと思うが、佐倉哲にとっての仏陀の諸行無常とは縁起を前提とした断見に相当すると思う( ´ ▽ ` )ノ

又、佐倉哲にとっての常見とは死後も永遠の生命が有るとするものだが、コレは当時のバラモン教の主張からすれば未だ理解が及んでない( ´ ▽ ` )ノ

当時のバラモン教が説く常見とは、縁起(因縁生起の略)の理法も諸行無常も無い死後の生命を指す。

仏陀が説く断常の中道とは諸行無常と縁起を前提とした断見と常見の否定である。

つまり人間及びその他の生命は地上生命を終えるとサナギが羽化登仙してアゲハチョウに変化するように永遠の生命を得るが、永遠の生命も又、諸行無常から離れて存在するのではなく有為転変する。

永遠の生命の有為転変を輪廻転生又は悟りが進むと言う( ´ ▽ ` )ノ

 

転明開悟と転生輪廻、仏性、神仕組み、主エル・カンターレ、仏の大悲

山川草木国土悉有仏性(さんせんそうもくこくどしつうぶっしょう)

永遠の生命は転生輪廻する度に仏性というダイアモンドの原石の一面一面ずつを磨いてダイアモンドの光が強くなる( ´ ▽ ` )ノ

これを悟りを得る(転迷開悟)という( ´ ▽ ` )ノ

 

それを以(も)って称して幸福の科学ではエル・カンターレへの道と言うが、コレは僕の解釈で幸福の科学の公式見解ではない( ´ ▽ ` )ノ

 

万人に通ずる普遍の真理

僕に限らず誰しもが徳川家康的な非常に長い間、堪え忍びを学んだ一面や豊臣秀吉的な苦労人として人情の機微と機略縦横な一面を学んで立身出世する一面や織田信長的な頭が切れるし、進取の気性に富み、激情家だが、無情な一面を持つと思う( ´ ▽ ` )ノ

コレは今世の人生だけでは説明がつかないので、人の中の織田信長的サイドから見たら馬鹿な人を見ては「馬鹿」と言って無情にも嘲笑し侮辱する。

織田信長の一生は他人を馬鹿にすると、どうなるかを世間に思い知らせたという、怒り💢に任せた人生だと思います( ´ ▽ ` )ノ

怒りの人生と言えば漫画の神様手塚治虫先生や上智大学の偏差値をアップする事に貢献したクリスチャンで智者の渡部昇一先生にも当てはまります( ´ ▽ ` )ノ

 

六大煩悩と野郎共に普遍の織田信長的武神(いくさがみ)的側面

言っておくが、織田信長だって「尾張(おわり)のうつけ者(馬鹿者)」と侮辱発言された非常に腹が立つ時期を長い事、経験しているし、誰しも幼少期から青少年期にかけては馬鹿だと思う( ´ ▽ ` )ノ

中には良い大人になっても馬鹿なままの人間達も大勢居る( ´ ▽ ` )ノ

織田信長が幼少期から青少年期にかけて長い事、女の腐ったような非常に高い声で話す時期が有った事は僕と共通するから、僕も織田信長的一面を持つ( ´ ▽ ` )ノ

このように人は転生輪廻する度に歴史に名を残した偉人達や諸賢哲、英雄豪傑の真似をして仏性の一面一面ずつを丁寧に磨き込んで悟りが進む( ´ ▽ ` )ノ

コレが主エル・カンターレが用意なさった神仕組みと言うものじゃないかと思います( ´ ▽ ` )ノ

その証拠に大川隆法大救世主は「伝記や自伝を読め」と、幸福の科学の「方便の時代」と主エル・カンターレが呼ぶ時期と、つい最近の2度説法なさいました( ´ ▽ ` )ノ

コレが主エル・カンターレが仰(おっしゃ)る仏の大悲だと思います( ´ ▽ ` )ノ

 

大川きょう子さんと種村修さん、GLA(ゴッドライトアソシエイション)の高橋信次さんと長女の高橋佳子さんについて

大川きょう子さんは大川きょう子さん自身が経験した自動書記現象を根拠として一時期はアフロディーテ様と文珠菩薩様、ナイチンゲール様の生まれ変わりで通した時期がありましたが、大川隆法幸福の科学グループ創始者兼幸福実現党総裁自身は大川きょう子さんが永久追放される迄、沈黙を守りました( ´ ▽ ` )ノ

しかし、大川きょう子さんも永遠の転生輪廻のプロセスの中でアフロディーテ的女性らしさの一面を学び、文殊の利剣的頭の良さを今世は東大英文科卒迄学び続けて別の転生時にナイチンゲール的一面を学んだ訳です( ´ ▽ ` )ノ

種村修さんも舎利弗(しゃりほつ)様的な一面を主エル・カンターレが仏の慈悲によって仕組んだ神仕組みの中で学んだ事があったからこそ自身をサーリプッタと思い込んだ訳です( ´ ▽ ` )ノ

高橋信次さんと高橋佳子さんにも全く同じ事は言えます。

高橋信次さんは、仏陀が持つ六大神通力と悟り、降魔成道(ごうまじょうどう)、霊能者史上初の大卒で中小企業経営者としての知性を一面として持っていたからこそ自身を長い事、再誕の仏陀だと思い込んだし、高橋佳子さんも大天使ミカエル様的一面を永年のリ・インカネーションの中で身に付けたから、自分自身を大天使ミカエルだと思って「真・創世記」を著(あらわ)せたんだと思います( ´ ▽ ` )ノ

コレは誰しも当てはまる普遍的な真理だと思います。

唯コレは僕の知ったかぶりとも言える事は言えますかね( ´ ▽ ` )ノ

 

大団円

以上、自分の知性と教養をひけらかしたい誘惑に唆(そそのか)されるままに知ったかぶりをする佐倉哲に合わせて僕も自分自身の独学学問の途中報告を試論した( ´ ▽ ` )ノ

普段の僕は自分の知性と教養をひけらかせる事は皆無なので、誤解無きようお願い申し上げます🤲

僕は佐倉哲に言いたい。

てめえニーチェの真似をして妙な知ったかぶりするんじゃねえぞ!(激怒)

 

情報ソース

佐倉哲エッセイ集



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