僕は青柳裕子さんを尊敬し、愛している( ´ ▽ ` )ノ

青柳裕子さんと言う女性は裕子さんが高校3年生の時から僕が、ずっと崇拝する女性の名前です( ´ ▽ ` )ノ僕が20歳の時には彼女との結婚💒👰を考えてました( ´ ▽ ` )ノでも、僕の片想いです( ´ ▽ ` )ノ1998年から、2017年現在も彼女にプロポーズのラブレター💌を送付し続けております( ´ ▽ ` )ノ僕は彼女の為なら死んでもいいです( ´ ▽ ` )ノ

私の生まれ故郷は福岡県田川市だった(⌒∇⌒)それからその後の流れ

   


Print Friendly, PDF & Email

私の生まれ故郷福岡県田川市(⌒∇⌒)


私は福岡県田川市で生まれました。
母から聞いた話ではこの時期に母子揃って工場の煤煙で喘息にかかりました。
私はあっさり治ったんですが、母は70歳過ぎた今でも喘息が完治してません。
母の喘息の一番ひどかった時期は母が若い時で、その時期父は僕の小児喘息があっさり治ったから、母の喘息は仮病だと思い込み、喘息の母に「働け」と言い放ち無理矢理働かせます。
当時の母の喘息の症状は夜寝ている間中喘息で眠れなかったので、勤務先でうとうとしながら仕事をして帰宅後は家事洗濯をしていたようです。
田川市に住んでいた時期はそれ程長くなかったし、その後の引っ越し先の福岡県小郡市も仮の住まいでした。
母が父の命令で働き始めたのは小郡から博多に引っ越した時のようです。
父の方とは言うと父は結婚してすぐに一流企業の営業マンになったんですが、うまくいかず、退職して県職員になりました。
しかし、その県職員だった当時に栄転の話が父にあったんですが、父が当時労働組合運動に関わっていた為、栄転の話はなしになり、父は退職し、市職員になりました。

博多区千代町時代


父が市職員だった当時、既に私達一家は博多区千代町のシャルマンコーポ博多というマンションに住んで私は千代小と千代中で学問と体育に勤しんでました。
この千代町は同和地区でJR吉塚駅付近には今でも部落解放同盟の事務所があるはずです。
この部落解放同盟の事務所の存在を知ったのは最近の事です。
私も千代中生の時同和教育を受けた記憶が微かにあります。
この時期に士農工商という身分制度の下にエタ、非人という身分がある事を知りましたが、こんな江戸時代の身分制度が明治維新と大正デモクラシー、大東亜戦争を経た今も悪影響を与えるという思想には左翼的な自分の不幸を他人のせいにするどころか大昔の身分制度のせいにするというのに卑怯なものを今は感じてます。
そもそも私が住んでいた千代町は千代流という山笠の拠点ですし、シャルマンコーポには梅津組という暴力団の事務所がありました。
この千代町という町に住む子供達で成績不良の子らは万引きの常習犯で、暴走族や暴力団ともつながりがあります。
たとえ同和地区とは言え両親がしっかりしてればその子は立身出世し決して部落差別などされないものです。
自分が部落出身であると言う事をいつまでも言い訳にしないで部落解放同盟など早々に解散するがよろしいと思います。
さて、僕が学生時代ずっと住んでいた博多区千代町時代の話をします。
当時の父は市職員でしたが、母は仕事と家事洗濯で休みもろくろく取れないのに喘息で夜も眠れない状態だったのに対し、父は仕事が休みの日は僕の目の前で酒を飲みながらやくざ映画を平気で見るクセに僕に対しては学校の勉強だけじゃおさまらず、自宅での勉強を強制し自分の眼鏡に適ったテレビ番組以外は見せないという方針でした。
これが僕が進学校の福岡県立新宮高校を卒業してからの反乱につながりました。
父が大学進学を強制したのに対し私は九州デザイナー学院アニメーション科に進学すると言い張り口論になりました。
僕は父が教育パパなのは分かってたので、新聞奨学生として学費を負担するから、絶対九州デザイナー学院アニメーション科に進学すると言ったのに対し父は、そんなのは無理だから、大学に行けとあくまでも言いました。
僕は大学に行っても勉強なんかしないからな、と言ったらさすがの父も折れて両親が学費を負担し僕は念願の九州デザイナー学院アニメーション科に進学し、2年生の時にアニメーション科の勉強の為アニメーション科のみんなで広島国際アニメーションフェスティバルに行って死ぬ寸前の手塚治虫先生の姿を至近距離で直接拝見するという得難い機会を頂きました。
アニメーション科の勉強は何にもなりませんでしたが、手塚治虫先生のお姿を直接見たというのが九州デザイナー学院アニメーション科に進学した唯一の収穫でした。
当時既に平成元年昭和天皇崩御の年と手塚治虫先生の他界の年は奇しくも一致しました。
これも霊天上界の縁と思います。
平成元年僕は人生の行き詰まりを迎え将来を悲観し富士山の青木ヶ原樹海での餓死による自殺を意識しました。
何故かと言うと絵の先生方は手取り足取り絵の描き方を教えてくれなかったから、進学しても画力は全く向上ぜず、アニメーション業界への就職の道は断たれたからです。
僕は小学生の時から手塚治虫先生のような歴史に残る一流漫画家を目指してたので、小学生時代から学校の勉強はせず、体も鍛えずだったので、頭を使う仕事も力仕事もできない事が分かってたし、さりとて漫画家になろうにも新人賞の規定枚数に達する漫画がどうしても描けませんでした。
平成元年の二十歳の頃の私は1つの転換点を迎えてました。
当時私はアニメーション科で幾つかの事を遺言代わりに言い残しました。
文字数がこの時点で2000字超えてるので、続きは次回(⌒∇⌒)


お気に入り



キーワード:








ひとりごと ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 九州ブログ 福岡(市)・博多情報へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

 - 自分史(@^▽^@)ニコッ